菅江真澄が辿った津軽路の旅

津軽半島を巡った菅江真澄の足跡は、三方海に囲まれた食と歴史の街道として、これだけ細かに辿った旅人はあっただろうかと思わせるほど、あちこち歩いています。
それも好奇心が強いのか、多趣味といってもいいぐらい、多岐にあたる見聞で、その場所は、現在も多くの観光地となっています。そんな真澄の世界を、多くの皆様にも辿って発見してもらいたいと思い、この度、ホームページ上で、真澄の辿った街道シリーズを紹介する事としました。
どうぞ、スマホを片手に旅してみてください。

食と歴史の津軽街道ラリー

この街道には、景勝地・真澄の図絵を書いた場所、丼ぶり・定食・ご膳の食堂・道の駅(お土産品)等や地酒店・観光施設等が散りばめられています。
数多くの思い出をホームページから情報を得て、楽しい思い出の度になることを祈っています。


菅江真澄の観た世界

 江戸時代の紀行家 菅江真澄は、宝暦4年(1754年)三河の国(愛知県)に生まれ、本名は、白井英二と名乗っていた。30歳で国を出て東北地方・北海道を18年間巡歴し、享和元年(1801年48歳で再び、秋田領に入り、28年間秋田6郡を巡歴し、文政12年(1829年)76歳で死去しています。

 数多くの図絵や日記を残しているが、晩年は秋田領では地誌をまとめ、文化10年60歳の時、月・雪・花になぞらえた記録を残したいと訴えるが、すぐには実現せず、文政5年(1822年)69歳で作品を完了しています。

 さて、陸奥の国(青森県)には天明5年(1785年)32歳の時に、八峰町(岩舘)より深浦町・鯵ケ沢町を経由し、弘前市、そして青森市(うとう)→松前街道を通って北海道松前町へと計画していたが、善知鳥神社で占いを受けたら、「3年待てとのお告げがあり」断念、その後、羽州街道を南下し、大館市に向かっている。(外ヶ浜風)《西浜街道》

3年後の天明8年(1788年)35歳、野辺地町の馬門の関から、青森市→外ヶ浜町の三厩(宇鉄港)から、北海道松前へ渡っている。
 当時、三厩は幕府巡検使が三厩港に滞在しており、小さな港町からの北海道に渡ることになりました。《外ヶ浜・今別街道》

寛政4年(1792年)39歳、北海道福山→下北半島奥戸(大間町)→佐井村→易国間(風間村)→むつ市(大畑)→田名部→恐山と旅をし、八戸市あたりを巡り、寛政7年(1795年)青森市に戻り、翌年、新年を青森で迎えています。

寛政8年(1796年)43歳、当時の弘前藩は、藩士の子弟が学ぶ教育の場として、稽古館を創設し、菅江真澄は板柳の藩医でもある山崎顕貞宅に泊まり、本草学の知識をかわれ、寛政9年には、山崎の父親に藩の採薬係りとして推奨されています。(津軽のをち)

この年、真澄は、小湊(平内町)・水木(常盤村)・館の越(板柳町)、そして三内桜を見物(青森)し、縄文土器を記録し、八甲田山のすそ野を通り、浪岡、水木を経て、大鰐町、また高野(五所川原市)→夕顔堰(板柳町)→吉良市(金木町)→中里(中泊町)→相内(市浦)→安倍の館→山王坊→唐桑城→七ツ滝・小泊、そして十三湖、袴形(車力村)→舘岡(木造)つがる市→鯵ケ沢→深浦の竹越里圭宅に泊まっています。《津軽街道》

 その後、また鯵ケ沢に戻り→赤石→一ツ森・種里→松代→湯の段(岩木町)→村市(西目屋村)を経て、暗門の滝を見て、深浦へ帰っています。(雪のもろたき)

寛政9年(1797年)44歳、深浦で新年を迎え、弘前へ、そして藩校稽古館から正式に、採薬係りとして採用になる(津軽のをち) その後、南津軽郡の深山で採薬しています。(錦の浜) 《白神街道》

寛政10年(1798年)45歳
童子(平内町)で新年を迎える。(津軽のつと) 浅虫をたって弘前へ、そして、中津軽郡内や白神山地周辺の山で薬草を採薬し、岩木山にも登っています。
また、西津軽郡内・北津軽郡内(五所川原・中里方面)、そして、東津軽郡内(蟹田・平舘方面)でも、精力的に採薬している。(錦の浜)→黒石市付近の紅葉を見物しています。《浅虫・刈場沢街道》

寛政11年(1799年)46歳
新年を藤崎の川越家で迎える。その後、五所川原に行き、閑夢亭で、「雨中梅」の和歌を詠んでいます。(錦の浜)

寛政12年(1800年)47歳
 伊能忠敬蝦夷地測量で、陸奥の国に来ています。
享和1年(1800年)48歳
深浦にあり、お世話になった竹越貞易に、「社参次第神拝進退」を伝えています。そして弘前から鯵ケ沢にきています。(錦の浜) 《西浜街道》
岩舘(八森)ではたはた漁を見学し、秋田領に入りました。
 そして長く秋田領に滞在し、文政12年(1829年)76歳 角館神明社で死去しています。


この様に、陸奥の国滞在年は、32歳~48歳までの13年の歳月となりました。東北・北海道の自然と人々の生活を日記のように毎日記録し続けた真澄は、図絵としてもその記録を残しています。
 現在発見されている真澄の県内の《紀行文》は津軽・南部(青森県域)、下北地域合わせて16編で、挿絵の図絵は,256点となっています。
 記録の日記にも、自己主張したものは極端に少なく、自らの事は今でもわからず、なぞとされています。
 食べ物の事を記録したものも数少ない中「餅」についての記録が数多いのが、一つの特徴でもあります。

 文化5年(1808年)55歳の時に、「百臼の図」をまとめているのも珍しく、また、餅の記述は、陸奥の国では、津軽のをちで、おかのもち(深浦) まゆ玉 花ひら餅 氷の餅(弘前) 氷もち(館の越)板柳等が記載されています。

世界文化遺産の石見銀山は、島根県大田市にありますが、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)として栄えました。最盛期には、日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定されています。
当時、津軽藩では、西目屋の尾夫鉱山が銀の採掘で知られていました。
菅江真澄は、暗門の滝を訪れた時に、この尾夫鉱山の銀の図絵を書いています。
当時、北前船が日本海交易の中心だった頃、多くの銀も北前船で、全国に運ばれ、そして東アジア交易でも活躍したとされています。津軽藩が大事にしていた銀山採掘の情報が他藩に伝わることを藩主が恐れたのか、あれだけ毎日丁寧に記録を残していた真澄の記録は、今はきれいに存在していません。 

 かつて「太陽の沈まないハプスブルク帝国」と呼ばれたハプスブルク帝国の中心地オーストリアのチロルは、中世時代、大量の岩塩や銀をもたらし、世界の銀のなんと約85%を産出したことが知られています。
チロルはとりわけ貨幣改革を行い富裕公と呼ばれたジグムント公(1427~1496)や皇帝マクシミリアン1世(1459~1519)の統治の下で最盛期を迎え、「太陽の沈まないハプスブルク帝国」の基盤を作り上げました。現在のアメリカの通貨である「ドル」もここチロル発祥の銀貨「ターラー」に由来しています。
また、チロルの鉱山規則は19世紀に至るまでヨーロッパ中の多くの鉱山の手本ともなり、現在でも中南米で当時の方針がそのまま受け継がれているところもあると言われています。
この菅江真澄の図絵や日記に記された、津軽半島の地をホームページの情報を検索しながら辿ってみませんか。
真澄の観た世界が見えてくると思います。